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一条戻り橋とは?いくつもの伝説がある京都の橋を知ろう

一条戻り橋とは?いくつもの伝説がある京都の橋を知ろう

京都に一条戻り橋という橋があるのをご存知でしょうか?一条戻り橋は、平安の時代から続く、長い歴史といくつもの逸話が伝わる、不思議な橋なのです。この記事では、その「一条戻り橋」に眠る数々の伝説について詳しく紹介いたします。

    一条戻り橋とは?古くから伝説が多い京都の橋

    一条戻り橋とは,その伝説は?

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    京都に「一条戻り橋」という橋があるのをご存知でしょうか。古くからあの世とこの世をつなぐ橋という言い伝えのある橋です。

    その歴史は大変深く、平安京造営に伴って794年に掛けられた橋で、もとは「土御門橋(つちみかどばし)」と呼ばれていました。その場所は、当時の都の北東(鬼門)にあたる方角で、都の端の出入り口でした。死者はこの橋を渡って墓地まで運ばれたといいます。このようなことから、この橋はあの世とこの世をつなぐ橋と言われていたのです。

    実は一条戻り橋には数々の逸話が残されています。そこで、今回は「一条戻り橋」に眠る伝説について詳しくご紹介いたします。

    死者も蘇る?一条戻り橋の由来

    一条戻橋,由来は?

    「一条戻橋」その由来とは?

    もとは「土御門橋」と呼ばれていた橋が、なぜ「一条戻り橋」と呼ばれるようになったのでしょうか?その由来について見ていきましょう。

    平安時代、浄蔵(じょうぞう)という修験道を極めた者がいました。菅原道真の怨霊を鎮めたり、東山法観寺の八坂の塔が歪んでいたのを直したりしたことでも有名な僧です。

    延喜18(918)年、紀州熊野で修行していた浄蔵のもとへ父が危篤だという知らせが届きます。知らせを受けた浄蔵は「なんということだ。父の死に目に逢えないなど、最大の親不孝だ」といい、熊野からすぐに京に向かいます。

    しかし、この橋にたどり着いたところで葬列に出会うことになります。父の臨終に間に合わなかった事を悟った浄蔵は、嘆き、棺に取りすがって、父に一目会いたいという一心で祈りました。すると父は息を吹き返し、一時的に蘇ることを許されたのだといいます。それ以来、あの世からこの世へ戻ったという場所として土御門橋は「一条戻り橋」という名前に名付け変えられました。

    陰陽師・安倍晴明のものすごい一条戻り橋伝説

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    陰陽師「安倍晴明」と一条戻り橋には様々な逸話が残る

    陰陽師」という言葉を一度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?最も有名なのが平安時代に活躍した「安倍晴明」です。安倍晴明と言えば、怨霊と闘う、言わば霊能者のようなイメージで語り継がれています。フィギュアスケーターの羽生結弦選手が晴明をテーマにしたプログラムを披露したのは記憶に新しいですね。

    延宝2(1746)年の「古浄瑠璃正本」には、「芦屋道満が晴明の父である安倍保名を一条戻り橋で惨殺するが、安倍晴明は父を祈祷によって蘇生させ道満を打ち滅ぼす」と記されています。

    前述した、一条戻り橋の名前の由来である、「浄蔵」の父の蘇生がありますが、同じ蘇生でもこちらは歌舞伎の題材にもなった逸話です。一条戻り橋を語るうえで安倍晴明は切っても切れない縁があるのです。

    今も残る一条戻り橋の伝説

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    一条戻り橋には数々の言い伝えが残されています

    「一条戻り橋」には、現代にも伝わる言い伝えがいくつかあります。

    例えば、婚礼の行列はこの橋を通ってはいけないと言われています。これは花嫁さんが出戻らないようにという意味を持っているのだとか。さらに、霊柩車もこの橋を通ってはいけないと言い伝えられています。そこには個人を安らかにあの世へ送りたいという気持ちが込められています。逆に旅人は橋を渡ると必ず戻って来られると、橋を渡ってから旅立つ人もいるといいます。また、戦時中に、出征する前の兵士がわざとこの橋を渡り、無事に戦地から戻ってこられるようにと願ったと言われています。

    このように一条戻り橋には数々の言い伝えが残されていますが、この橋にはとても恐ろしい歴史もあるのです。

    一条戻り橋であった残虐な出来事

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    一条戻り橋ではじわじわと苦しみを与える処刑が行われた

    戦国時代になると、この地で、最も残酷な刑とされた「鋸引き(のこぎりびき)」が行われていました。「鋸引き」とは、復讐刑としての意味合いも強く、罪人を地中に埋めて首だけ出し、身動きできないようにし、被害者親族や通行人などが鋸で少しずつ罪人の首を切り、ゆっくりと死なせるという当時の極刑です。一人あたり1回か2回だけと鋸をひく回数は決められていました。首を切る鋸はあえて切れ味の悪い竹で作ったものだったといいます。

    受刑者は、いつ鋸をひかれるのかという恐怖におびえながら、じわじわと苦しみを与えられて殺されていったといいます。鋸は切れ味が悪いものだったため、絶命までには相当時間がかかったのです。虫が首の傷を蝕むことも多く、多くの者は処刑の途中で気が狂ったと言われています。

    さらに、一条戻り橋のたもとは罪人のさらし場所にもなりました。天正19(1597)年に豊臣秀吉の怒りを買い、切腹を命じられた千利休の首がされたのも、この橋だったのです。そして豊臣秀吉の時代には、24名のキリシタンの左耳を削ぐ「耳そぎの刑」もこの地で行われたと言います。

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