
龍神のアマちゃん

金龍の͡コガネ丸
「君が代」の正しい現代語訳についても知りましょう!
「君が代」が国歌になった歴史

君が代が国家になったのは、明治2年(1869年)です

龍神のアマちゃん
日本には昔、国歌がなかったんやで。

金龍の͡コガネ丸
日本は長い間、鎖国をしていて、諸外国と関わることが無かったため、国歌が必要であるという概念そのものがなかったんですね。
「君が代」が国歌として作ることになったのは、1869年、明治2年に御親兵の観兵式で演奏される国歌について、イギリス公使館護衛隊歩兵大隊のフェントンから問い合わせられたことが発端です。
そこで始めて、国歌は外交儀礼に欠かせない大切な役割を果す役割があることを知るのです。そして、急ぎ国歌を作ることにりました。
国歌の候補として選ばれたのは
わが君は 千代に八千代に さざれ石の 巌となりて 苔のむすまで |
という、古今和歌集の賀歌であり、薩摩琵琶歌の蓬莱山の一説にある言葉でした。その際洋楽に編曲したのが、前出のフェントンです。
日本初の国歌でしたが、「歌い辛い」、「歌詞と音楽が合っていない」ことから、1871年(明治4年)以降、歌われなくなりました。

龍神のアマちゃん
その後、紆余曲折あって今の国歌ができたんや。
1876年(明治9年) | 「君が代」の楽譜改訂上申 |
1880年(明治13年) | 国歌再選定が始まる |
1880年(明治13年)10月 | 改訂版「君が代」が完成 |
1880年(明治13年)11月3日 | 明治天皇の誕生日に 「君が代」が初演奏 |
1893年(明治26年) | 祝日大祭日歌詞並楽譜 を官報に告示 |
式典などに用いられる 歌として認識される |
|
1999年(平成11年) | 国歌として制定される |
年賀のために作られた?
「君が代」は、もともと年賀のために作られ、古今和歌集の賀歌に納められていました。
鎌倉時代~室町時代の「君が代」
- お正月に限らずおめでたいことがあるときに歌われる
- 一般的にも広がり延年舞や田楽、猿楽、謡曲などの他、お開きや舞納めの際にも用いられる
江戸時代の「君が代」
- 将軍家の年賀の挨拶前のお清めの儀式の中で歌われていた
- 男女の親しい関係(行為)を表す歌としても使われていた

金龍の͡コガネ丸
このように、「君が代」は段々と広まり、地位など関係なく多くの人と関わっていたということが分かりますね。
安曇の君(古代九州王朝)の賀歌?
また、「君が代」は、人々の生活の中に根付いていたというだけでなく、安曇の君(古代九州王朝)の賀歌であるという解釈をすることもできるそうです。
安曇の君とは、海人族の長で筑紫の王をしていた安曇磯良のことではないかといわれており、この安曇磯良は、ウガヤフキアエズノミコトであるとされています。このウガヤフキアエズノミコトは、アマテラスオオミノカミやニニギノミコトの子孫で、初代天皇の神武天皇の父となる神様です。
「君が代」の歌詞が
- 福岡県にある地名:千代や井原
- 博多湾の広い海岸のこと:八千代
- 九州地方にある:岩穂や細石神社
などを指しているのではないかということから、「君が代」は古代九州王朝の讃えるという意味が込められているのではないかという考えもあるのです。

龍神のアマちゃん
次のページでは、「君が代」の歌詞の意味について紹介するで~
「君が代」は世界一短い国歌やで~